繋がった命のビザ

発給された命のビザが、どのようにして繋がったていき安全な国へ行くことができたのか?ここではその命のビザをもった6000人の足取りを徹底検証しました。そして徹底検証してみてわかったこと、奇跡的なことなどまさに必死な思いがすべてをそうさせた出来事だったと思いました。それら一つ一つの出来事をリアルタイムでまとめましたので、ぜひご覧ください。

発給された命のビザが、どのようにして繋がっていき、安全な国へ行くことができたのか?

徹底検証

【その都度発生する問題をリアルタイムに追跡!】

第一の問題・・ビザ発給を求める

 

1940年(昭和15年)7月18日 運命の日

リトアニアの日本領事館前におよそ100名のユダヤ人たちがビザ発給を求めて訪れる。

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1940年(昭和15年)7月29日朝ビザ発給が開始される

当時発給されたビザ。

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1940年(昭和15年)9月5日の早朝 杉原千畝は、ベルリン行き国際列車に乗ってカウナスを去る。

杉原千畝が最後に残した言葉

「許して下さい、私にはもう書けない。みなさんのご無事を祈っています。」

7月29日早朝より9月5日の出発までに発給したビザは2139枚。

第一の問題解決・・・杉原千畝によって命のビザが始まる

 

 

第二の問題・・ソ連の秘密警察に捕まらずに、ウラジオストックに着くこと

 

9月5日以降モスクワを経由してシベリア鉄道でウラジオストックへ向かう

*因みに、このシベリア鉄道で途中駅で何度もソ連の秘密警察NKVDの取り調べがあり、不幸にも逮捕されシベリアの強制収容所送りになった難民もいた。さらに難民たちはほかにも恐怖を抱えていた。はたして日本ではどのような処遇が待ちうけているのか不安におびえていた。そもそも難民たちには日本や日本人についてほとんど知識がなく情報もなかった。はたして、杉原が発給したビザで日本に入国することができるのだろうか。仮に入国できたとしても、日本政府は自分たちの身の安全を保障してくれるだろうかなど、難民たちはビザをにぎりしめながら汽車に揺られた。

鉄道での移動は約2週間でウラジオストックにたどり着きました。

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 第二の問題解決・・・発給されたビザを抱きしめて、いざ日本へ向かう!

 

 

第三の問題・・既に日本の外務省から出ている訓令を無視して、船で敦賀に向かうこと!

 

約2週間かけてウラジオストックに着いた難民たちに次なる問題が待ち受けていました。

・難民たちがウラジオストックに着くころ、駐ウラジオストック日本総領事館に日本の外務省から訓令が出されていました。その内容は杉原の発給したビザによるユダヤ人には日本に向かう船に乗ることを許可しないようにというものだったのです。命がけでシベリア鉄道を横断してきたユダヤ難民にとって、この先進むことができなくなるとうことはまさに、ナチスドイツに強制送還され、それはすなわち「死」を意味することになる。しかしここで、命のビザを引き継いだ日本人がいた。

外務省の訓令を受け取った駐ウラジオストック日本総領事館の根井三朗総領事館代理が外務省の指示を、何と突っぱねたのであります。

根井はユダヤ人の乗船を制限することはせず、さらにビザを有していないユダヤ難民には渡航証明書を発行して日本への入国を手助けした

このようにして、根井の人道的な判断によってユダヤ難民たちを乗せた船は日本海を渡って福井県敦賀へと向う段取りができたのです。

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 第三の問題解決・・・根井三朗によって、乗船許可がおりる

 

 

第四の問題・・疲労困憊の中、無事に敦賀に着くこと!

 

1940年(昭和15年)9月末頃より

約10ヵ月間にわたって、ビューローの客船「天草丸」でウラジオストックから敦賀までユダヤ難民を輸送した。この時中心的役割を担ったのが、大迫辰雄というビューローの職員です。片道約1週間を20数回往復しました。

・日本海は荒波が激しくうねり、恐怖と不安がありました。

・大迫たちはビューローの本社から受け取ったリストをもとに約1週間の航海中、船内でユダヤ難民の確認作業を行いました。だが言語の違いや避難してきた疲労と船酔い、さらに着の身着のままに逃げ出してきていることもあり体臭もひどく確認作業は困難だったようです。

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 第四の問題解決・・・大迫辰雄が海上輸送に中心的役割を担う!

 

 

第五の問題・・ビザの有効期限の延長を勝ち取ること!

 

約1週間の航海を終えてようやく敦賀に着きました。

ところがユダヤ難民たちにさらに次なる問題が待ち受けていました。

一つ目の問題・・ビザの延長です。ユダヤ難民たちが持っていた有効期限はいずれも十日前後、中には三日というものもあった

二つ目の問題・・日本の通過ビザをもっていない難民たちがいました。ウラジオストックで渡航証明書によって船には乗れたが、日本への入国が許されていなかった。

三つ目の問題・・ユダヤ人たちが起こすトラブルの処理である。日本人とは生活習慣、宗教、価値観が異なり日本人に理解されず、あちこちでトラブルを起こしていた。それらの早急の解決に追われた。

・そこで、これらの問題に奔走し、ユダヤ難民たちを救った人物が、小辻節三(1899~19739・こつじせつぞう)です。

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一つ目と二つ目の問題解決・・小辻自身が外務省や自治体などに掛け合って、ビザの延長には一回につき十五日間ずつ延長できる許可を得た。又、ウラジオストックに着いたものの、入国許可がとれていない72名についても小辻節三のはたらきによって無地入国することができた。ただ小辻がどのようにして、入国許可を取ったのかは、記録が残されておらず不明のままとなっています。

 

三つ目の問題解決・・トラブルが起こるたびに、小辻自身が警察や役所に行って、事情を説明し理解させて一つ一つ回避していきました。

 

1941年(昭和16年)春ごろから

少しづつ難民たちは日本を出国しはじめました。ビザを有する者はアメリカやカナダへ、有しない者はビザの必要がない上海へと旅立って行きました。

・1941年(昭和16年)秋ごろには、ほとんどの難民が日本から出国していた。

第五の問題解決・・・小辻節三がユダヤ難民の受け入れに奔走!

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 以上のように、1940年(昭和15年)7月18日 運命の日から実に多くの問題を奇跡的に乗り越え、命のビザが繋がり安全な国へ行くことができました。カウナスから実に1万キロ以上の移動距離に、そこから日本を通過してさらに、上海やアメリカ、カナダへ向かったのです。