杉原千畝 帰国後

■1940年(昭和15年)9月12日 プラハの日本総領事代理として赴任

■1941年(昭和16年)3月 ドイツ東プロイセン州日本総領事代理として赴任

■1941年(昭和16年)12月 ルーマニアの日本公使館一等通訳官として赴任

■1943年(昭和18年)三等書記官として在ルーマニア公使館勤務

■1945年(昭和20年)ブカレスト郊外のゲンチャ捕虜収容所に連行される

■1947年(昭和22年)帰国 外務省退職 杉原47歳

この後杉原は、貿易会社に就職したり翻訳や語学指導に携わるなど職を転々としました。

■1968年(昭和43年)8月 イスラエル大使館にてカウナスでユダヤ人代表の一人として杉原と交渉を行ったニシェリとの再会が実現。28年ぶりの再会となります。

■1969年(昭和44年)杉原はイスラエルに招待されバルハフティック宗教大臣と面会。彼もまたカウナスでビザ発行の交渉を杉原と行った一人です。

この時バルハフティックは驚くべき真相を知ることになります。それはあのビザ発行は日本政府の意思ではなく、杉原自身が独断で外務省訓令に逆らって発行したとされることです。ユダヤ民族としては恩人の偉大な功績者であるにもかかわらず帰国後、顕彰どころか譴責(ケンセキ)のみであったことの事実を知る。

■1985年(昭和60年)1月 イスラエル政府より「ヤド・バシェム賞」を受賞する。

■1985年(昭和60年)11月 イスラエルの丘に杉原さんの顕彰碑がたてられました。この時杉原さんは病気のためもはやイスラエルに行くことができず、その代わりに息子の伸生さんが出席しました。その際現地の伸生さんから杉原さんへ手紙が届きました。その手紙には「握手をする手も休めないほどで 皆、本当に心から感謝している目をみると 僕はこんなに立派な両親をもって幸せだと あらためて思いました。」と記されていたそうです。

■1986年(昭和61年)7月31日 神奈川県鎌倉市 満86歳没

 

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その後の顕彰

●2000年(平成12年)10月10日 顕彰プレート除幕式(記念プレート設置式)
勇気ある人道的行為を行った外交官杉原千畝氏を讃えて  外務省の外交史料館において

この時、50年以上を経て外務省による「名誉回復」の場となりました。

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●2000年(平成12年)12月11日 杉原千畝生誕100年記念式典  大阪にて

●2001年(平成13年) 母校の早稲田大学の構内に記念碑が建立される。

外交官としてではなく  人間として当然の 正しい決断をした 命のビザ発給社 杉原 千畝

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●2007年(平成19年)5月 天皇陛下リトアニア訪問 その際に杉原千畝氏の記念碑を訪れた。

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杉原千畝に関するテレビドラマ・映画・芝居・ミュージカル

●1992年(平成4年)フジテレビ系「命のビザ」加藤剛 秋吉久美子

●2005年(平成17年)読売テレビ系列 戦後60周年記念ドラマ 「日本のシンドラー杉原千畝物語六千人の命のビザ」反町隆史 飯島直子

●2013年(平成25年) ミュージカルSEMPO~日本のシンドラー杉原千畝物語~ 吉川晃司

●2015年(平成27年)東宝映画「杉原千畝スギハラチウネ」 唐沢寿明 小雪

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杉原千畝の生き方をとうして様々なことを学びました。まず若い時には志を持って興味のある語学を生かした職業を選択。しかし家が貧乏だったために公費を使った語学留学に挑戦するなど、前向きに挑んでいたことはとてもよかったことだと思います。そして正義感というか、まじめさというかまっすぐな気持ちが仕事にもあったのだと思います。今だからこそ冷静に見れますが、あの1940年7月の決断は簡単にまねできるものではありません。戦争という大きな社会情勢の中で何が正義で、何が正しいのかそして何を守るべきなのかという中で、一人の外交官として単独でビザ発給を行ったことの意思は計り知れません。こうした生き方を少しでも社会に生かしながら生きていきたいともいます。

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