杉原千畝 命のビザ発給

●1940年ソ連軍 リトアニアに進駐

●1940年7月 事実上リトアニアはソ連軍に支配される

●1940年7月13日 ソ連軍より命令書が届く
ソ連軍は杉原さんに8月25日までに領事館を閉鎖せよと命じた

■1940年(昭和15年)7月18日  運命の朝

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 写真は当時領事館前に集まったユダヤ難民の様子を撮った写真です。

 

●この日の朝、およそ100人ほどのポーランドから逃れてきたユダヤ難民の人たちが、領事館前にいたそうです。その時杉原さんは、手記の中で「これはただ事ではない 何か知らぬが とにかく当領事館に用件があって来襲したものに違いないと 直感した」とあります。

 

●このとき訪れて来たユダヤ人たちは、ナチスドイツの迫害を逃れるためポーランドから逃げてきた人たちでした。

●そこでユダヤ人たちは、日本を通過して他国へ逃げ込みたいとの思いで日本領事館前に集まりました。このときのユダヤ人たちにおいて、最後の逃げる方法としてシベリア鉄道を経由してウラジオストクから日本を通過することでした。

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●そしてここで杉原は事態を把握するため、ユダヤ人の代表を選び領事館に入るように要請。5人の代表と約2時間近く話し合いを持たれています。

 

●さらにここから杉原は、2回にわたって外務省あてに判断を仰ぐ電報を打っています。しかし本国からの回答はいずれもよいものではありませんでした。

 

 

■1940年(昭和15年)7月29日朝 ビザ発給

杉原千畝は、くりょのあげく人道主義、博愛主義第一という結論からビザを発給することにした。そして、この日より一分間の休みものなく日本通過ビザ発給作業を開始したのです。

発給されたビザは全て手書きで、29日に発給したビザは121枚、そこから一日約70枚のビザを約1ヵ月間にわたって書き続けたそうです。ただ途中でより大量発行するためにビザのゴム印を発注し、ポーランドの職人がそれを用意しました。これでよりスムーズに事務手続きが進みました。

 

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■1940年(昭和15年)9月5日 リトアニアを去る

この日、ベルリン行きの列車で発車寸前までビザをかき続けたそうです。そして杉原さんは、「許して下さい 私にはもう書けない」と (六千人の命のビザの本より)言われたそうです。

 

杉原さんが発給したビザは、2139枚。そしてビザの発給で救われた命は、およそ6,000人と言われています。

さらに、現在その子孫を含めると、約20万人以上の方々がいらっしゃるそうです。

 

 

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