杉原千畝と命のビザを繋いだ日本人

杉原千畝 命のビザ、原本を公開 杉原氏の手書き署名

岐阜県八百津町は23日、第二次大戦中に「命のビザ」で多くのユダヤ人を救った同町出身の元外交官、杉原千畝(ちうね)(1900〜86年)が発給したビザ(査証)の原本を報道陣に公開した。

公開されたビザは、7歳の時に家族とともにビザの発給で助けられたというユダヤ人のシルビア・スモーラーさん(82)=米ニューヨーク州在住=が93年に町に寄贈。町は98年まで町有施設で不定期に公開してきたが、その後は劣化が進んだため、町役場の金庫室に額に収めて厳重に保管している。2000年に開設した「杉原千畝記念館」(同町八百津)では複製を展示している。

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杉原千畝 帰国後

■1940年(昭和15年)9月12日 プラハの日本総領事代理として赴任

■1941年(昭和16年)3月 ドイツ東プロイセン州日本総領事代理として赴任

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小辻節三

助かったユダヤ難民たちから命の恩人として必ず出てくる日本人の名前が二人いる。一人はリトアニアの杉原千畝であり、もう一人は鎌倉の小辻節三こつじせつぞう博士である。 ユダヤ人の間でユダヤ学の専門家として知られた小辻博士は、神戸のユダヤ教会から協力の要請を受け、政府との交渉を引き受けた。

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大迫辰雄

リトアニアの日本総領事館で、杉原千畝が発給したビザで救済されたユダヤ難民たちは、ウラジオストックから福井県の敦賀まで輸送したのが、ビューローの船だったのです。   ビューローとは、社団法人ジャパン・ツーリスト・ビューローのことで、現在のJTBのことです。  

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杉原千畝 命のビザ発給

●1940年ソ連軍 リトアニアに進駐

●1940年7月 事実上リトアニアはソ連軍に支配される

●1940年7月13日 ソ連軍より命令書が届く
ソ連軍は杉原さんに8月25日までに領事館を閉鎖せよと命じた

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杉原千畝 結婚

■1932年(昭和7年)3月 ハルビンの日本総領事館として

ハルビンの日本総領事館につき、満州国政府の外交部に出向。

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杉原千畝 外交官

■1900年(明治33年)1月1日 誕生

杉原千畝(すぎはら ちうね)は、岐阜県加茂郡八百津町に1900年(明治33年)1月1日に生まれました。

因みにこの八百津町には杉原千畝記念館があります。

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命のビザとは

「命のビザ」それは、リトアニア・カウナス日本領事館の杉原千畝領事代理によってユダヤ難民に発給された日本通過ビザをいいます。それはすでにポーランドや、デンマークなどがドイツのの手に落ちていたので、ユダヤ人の逃亡方法は日本の通過ビザを取得して、第三国へ出国するという経路しか残されていなかったためでした。そこで1940年7月18日早朝、ビザを求めるユダヤ人約200人が日本領事館の前に詰めかけました。その後杉原千畝は、ビザの大量発給に伴い当時の外務大臣に電報を打って判断を仰ぐなどしましたがいずれも「ビザ発給拒否」の回答。しかし間近に三国軍事同盟の締結が迫るなど日増しにユダヤ人に対する状況は悪化していました。そして杉原千畝は苦慮の挙句人道主義、博愛主義第一という結論からビザ発給という判断に至りました。そこから休みもいとわず日本通過ビザを発給し続け、最終的には2139枚、約6,000人のユダヤ人たちが救われたとされています。

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繋がった命のビザ

発給された命のビザが、どのようにして繋がったていき安全な国へ行くことができたのか?ここではその命のビザをもった6000人の足取りを徹底検証しました。そして徹底検証してみてわかったこと、奇跡的なことなどまさに必死な思いがすべてをそうさせた出来事だったと思いました。それら一つ一つの出来事をリアルタイムでまとめましたので、ぜひご覧ください。

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